浄化のための死
2008-05-13


ここで話は飛ぶけれど、この死に穢れを浄化する意味を見出す心性は、自殺とも関連しているのではないかと思う。
借金を苦にして首をつる人は多い。しかし、払えない借金など、払わなければいいだけのこと。今どきの大手サラ金業者は、悪辣な取り立てをほとんどしなくなった。それでも人は、借金を苦にして自ら死を選ぶ。
おそらくは、自らの死をもって債務を「払う」ためだろう。取り立てへの恐怖が彼らを死に追いやるのではない。債務という自分にまとわりついた穢れが、彼らを押しつぶしてしまうのである。自殺の場面でも、借金にまみれ、穢れた我が身を「払い」清めるという中世的心性が働いているのではないかと思う。
このことは、借金苦のケースだけに当てはまるわけではない。不幸、不運にまみれた自分でも、家族やカイシャに迷惑をかけた自分でも、死が自らを浄化してくれるのなら、誰もが美しく死ねるということだ。
だから、命を大切にと言ってみたところで、そんな説教など通用しないのが私たちの社会なのである。日本での自殺率が異常に高いのは、世界的にみて、私たちが特別に不幸な民族だからではない。
私はこう思っている。死に聖なる意味(祓い清め)を与えてしまう社会だからではないのか、と。

近代以降のヨーロッパでは、この種の中世的心性が「整理」されたと言われている。
歴史的にみれば、手の込んだ残虐な処刑方法や強烈な身分差別(賤視)を得意としたのは彼らの方だが、今や人道主義の旗手として、死刑や差別を非常に問題視している。
それに比べると、移民の国であるアメリカは、中世的心性を残した社会だと言われている。武器を個人が保有することが当然の権利とみなされ、一種の私闘が肯定されているのはその一例だ。
中世を整理できたヨーロッパ各国が死刑廃止に突き進む一方で、中世的なアメリカや日本で死刑が当然の制度とされているのは、偶然の一致ではないと思う。

私は、中世的心性を整理できたヨーロッパの方が特異であって、そうでない方が世界の普通の人々なのだとは思う。私たちの考え方があまりに普通であるために、直しようがないのではないかとも思う。私自身は直した方がいいとは思うものの、皆でヨーロッパ流の考え方を共有するのは難しいだろうし、もしそうなってしまったら、それはそれで気持ち悪いかも知れない。
それだけに、実を言うと、死刑や自殺といった悲劇を止めるために、何をすればいいのか、さっぱり分からない。

ただ、それでも言っておかなくちゃと思うのは、自殺はやめなさいと少年に説教しつつ、少年にも死刑を、と叫んでしまったら何にもならないということ。少年にも死刑を、と叫んでしまったら、霊感商法の被害など食い止められないということ。
そして、少年にも死刑を、と叫ぶあなたの心の中に、あなたが激しく非難する役所や大企業の「古い体質」と全く同じものが、きっと潜んでいるに違いないということ。

古い体質を直したいのなら、まずは自分の中の古い体質を見つめて欲しい。そう言っておきたい。
とくに、これから裁判員になる方々に向かって、あれこれと説教したい面々には。

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