浄化のための死
2008-05-13


今月9日の国連人権理事会で、日本の人権状況が審査された際、13カ国から死刑執行停止の要求がなされたそうだ。昨日の新聞にもその記事が小さく載っていた。

最近では、死刑大国アメリカでも、州レベルで死刑廃止への動きがあるし(州裁判所の違憲判決、ニュージャージー州での廃止など)、全体的に執行数が減少している。もう一つの大国と言えば中国だが、こちらもオリンピックを間近にひかえ、執行数は激減していると聞く。日本とは桁が違うとはいえ、減少傾向にあることは確かだ。
その一方で、このところ日本では、死刑判決数、執行数がいずれも増加しているうえに、先日、差戻審で判決があった光市母子殺害事件のように、18歳の少年でも死刑ありというかたちで、適用対象が拡大している。
今回の国連人権理事会での審査では、こうした日本での死刑拡大路線について、強い懸念が各国から表明されたということらしい。

日本政府側は「世論の支持を受けている」と反論したそうだが、確かに、近年の拡大路線は、世論に沿ったものだと思う。光市母子殺害事件では、第1審、控訴審での無期懲役の判決が世論による厳しい非難の対象となった。この事件ではとくに、世論に沿ったかたちで先日の死刑判決が出たという印象が強い。

それで、その世論なのだが、被害者遺族が死刑を求めるのは当然の心情だとしても、遺族以外の、全く応報する立場にない人々が、こぞって死刑を求めるのはなぜだろうか。
これは私たち日本人がもっている中世的な心性と関係しているのではないかと、私は考えている。ここでの中世的な心性というのは、呪術的なものの考え方と言ってもいい。犯罪を穢れと受け止め、処刑を払い清めの儀式と受け止める古い意識を、現代の私たちはなお、強固に持ち続けているのではないか、ということだ。
人殺しといった忌むべき事態が起きてしまうと、私たちは、容易には消すことのできない穢れが生じたものと受け止める。では、この殺人行為によって生まれた穢れは、どうしたら払い清めることができるのだろうか。おそらくは、その問に対する私たちの唯一の答えが、死刑なのである。

一人でも人を殺した以上、死刑になって当たり前と考える人は多い。その至極当然の結論のために、いちいち理由を説明し、申し開きをする必要などないと考える人も多い。しかし、その「当たり前」を支えているのが、こうした中世的心性なのではないかと、私は思っている。それだけで説明するのは無理とは思うが、私たちの根っ子にあるその心性が、死刑を支えている一つの要因だという確信はある。
そして、この中世的心性を前にしては、ヨーロッパ流の合理的な議論など、ほとんど役に立たないことに注意する必要があると思っている。

例えば、「死刑を廃止したら犯罪者が増える」と主張する人に向かって、死刑を廃止しても、犯罪は増えなかったという廃止国の統計を示したところで、何の説得力も持たない。私たちが心の底で懸念しているのは、犯罪が増えることではなく、穢れが浄化されない事態を恐れているのだから。
また、誤判の問題は死刑廃止論の大きな柱だが、払い清めの儀式においては、処刑される人物が真犯人かどうかはあまり関係がない。人柱のような生贄の例を想像してみればわかると思うが、人の死をもって払い清めること自体に意義があるとすれば、真犯人を正しく処刑すべきことは二次的な問題になってしまう。
冤罪を見抜けなかった裁判官を、私たちは単純な論理で非難するけれど、事はそれほど簡単ではない。無罪の疑いもあるけれど有罪の疑いもある被告人(全く疑いのない人はそもそも捕まらない)に対して、無罪判決を出すためには、実はかなりの勇気と決断力を必要とする。自らの中世的心性と激しく格闘しなければならないからだ。無罪判決とは、犯罪の浄化を放棄することであって、そんな事態を招くくらいなら、ともかく、その少しでも有罪の疑いのある被告人を処刑する道を、人は選んでしまうものなのだ。


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