「市民」から人へ。人から市民へ。
2009-05-21


それだけではなく、飲酒運転で死亡事故を起こしたら、7年程度の懲役刑とは非常識であり、25年でも足りないというのが「市民の常識」になった。例えば、故意に人を傷つけ、その相手がたまたま死んでしまったとすると傷害致死罪になるが、その場合の量刑の相場は、2〜3年の懲役である。5年を超えることはほとんどない。つまり、過ちで人を死なせたに過ぎない人に対する刑罰の相場が、一気に、意図的に人を傷つけ、そのはずみで人を死なせた乱暴者に対する刑罰の何倍にもなったわけである(いや「市民感覚」からすれば、傷害致死罪の量刑が軽すぎるということになるのか)。
最近の日本が死刑大国になってしまったのは、裁判員制度のせいだけではないだろう。けれど、ここ数年、ほとんどのマスメディアが「もっと死刑を」「もっと厳罰を」と金切り声を上げ、この制度にかこつけた厳罰論を主張し続けてきたのは事実だ。
厳罰化と必罰化とは紙一重でしかない。厳罰化は必罰化を生み、そして、必罰化は冤罪を生む。
いまだに「市民」の文脈で議論したがる人は、「市民が無罪を主張しているのに、裁判官が死刑の結論を市民に押しつける」ような事態を心配しているようだが、ここでメディアが表現する「市民感覚」がその通りだとすると、その逆の事態を心配しなければならなくなったわけである。
マスメディアが「厳罰化の流れ」と、まるで他人事のように表現するこの現象は、私には恐怖そのものだった。
これは「流れ」だから、誰にも責任がなく、誰も反省しないということなのだろう。そんな流れに乗せられて、生きた人間が次々と死刑台に送られる。そんな恐るべき国になってしまった。

しかし、実際に制度のスタートが秒読み段階に入ると、多少はこの恐怖感も和らぐようになった。
なぜかというと、普通の人を念頭に置いた、現実的な議論が復活するようになったからである。
世論調査をやってみると、参加したくないという人が8割ほどいることがわかってきた。司法を民主化するために積極的に参加したいと考えるのが「市民」のはずなのだが、これはなんとも「市民」らしくない答えである。
次いで、自分が死刑の判断をするのは辛いという意見が、かなり広がりをみせるようになってきた。ちょっと前までは、殺人者に無期懲役とはとんでもない話で、死刑を求めるのが「市民感覚」とされていたはずである。「市民」なら、これまでの判例にとらわれた頭の硬い裁判官の主張を跳ね返し、堂々と死刑を主張し、正義を実現するはずだった。正義の味方たる「市民」にしては、なんとも頼りない感じになってきてしまったわけである。
新聞の社説などを注意深く読んでみると、「市民」という言葉と「人」という言葉が使い分けられていることがわかる。参加したくない人は「人」であり、興味すらない人は当然「人」として表現される。一方、これで司法を変えられるとか立派な意見を述べる人は「市民」とされる。しかし、世論調査の結果は、「市民」よりもただの「人」の方が圧倒的に多いことを示している。
こうした多数派の傾向を認識したマスメディアは、かつては一切無視するか否定してきた制度の問題点の発掘に励むようになった。おかげで、現実的な論点が日の目を見るようになり、多少はまともな議論が聞けるようになってきたというわけである。
結局、「市民」という言葉で議論している間には見えなかった現実が、ようやく皆に見えるようになったということではないだろうか。
私たちは「市民」ではなく、ただの普通の人でしかなかったのである。裁判官に向かって、お前たちは「市民的」でないから選手交代だと、外野席から野次を飛ばすのは簡単だけれど、実は今、私たちが立とうとしていたのは、玉が飛んでくるグラウンドの真直中だったのだ。

だから本当は、普通の人が参加するという現実的で具体的な前提の上で制度の問題点を考え、あらかじめ制度への理解を広めておくことが必要だったのだと思う。

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