「市民」から人へ。人から市民へ。
2009-05-21


今日からいよいよ裁判員制度が実施される。せっかくなので、ここで一発言っておきたいと思う。
この制度については、「市民」が司法に参加する制度という言い方があるけれど、もうその言い方はやめにして、ちゃんと現実に即した議論を始めようじゃないですか、と。

そもそも私たちは、「市民」という言葉を、特別な意味を込めて使っていることが多い。善良であり、常識を備えており、公平な判断ができ、庶民的であって、毅然として権力を批判できる・・・といった肯定的な意味を込めている。
だから、裁判員制度についての議論が始まったとき、これに反対したのは一部の専門家ぐらいのものだった。だいたい、「市民」が司法に参加するのだから、良い制度だとしか言いようがなかったわけである。
今になって振り返ってみると、このところ議論されている問題点をいち早く的確に指摘していたのは当時の反対派だったのだが、「市民」の敵である法務省をはじめとする反対派の意見は、あまり顧みられることはなかった。

私は、裁判員制度が始まっても、事実認定の精度は、良くもならないし悪くもならないと思っている。
おそらく、冤罪がなくなって格段に良くなることもないし、逆に、冤罪が増えることもないだろう。素人でも6人集まれば、裁判官並みの精度は保たれるだろうし、一方で、裁判員も同じ人間である以上、裁判官と同じ程度には間違えるはず。
しかし、「市民」が参加するという文脈で議論が始まると、そういう冷めた予想は全く相手にされなくなる。「非市民」である裁判官は、常識がなく、不公平な判断をして間違えたかも知れないが、「市民」は全く間違えないか、あまり間違えないという前提で議論が進んでしまう。なぜなら、「市民」であれば常識に基づいて公平な判断を下すはずだから・・・と。
昨年、今さらのように延期した方がよいとか言い出した弁護士会も、もともとは推進派の急先鋒だった。
裁判官が相手では、被告人の言い分をまともに聞いてくれないし、弁護側が証人申請しても採用してくれない。けれど、「市民」が参加してくれれば、被告人の置かれてきた境遇とか、やりきれない気持ちとか、きっと庶民目線で理解してくれるに違いないという、楽観的な思惑があったように思う。

ところが、制度導入が決まって以来、こういった「市民」像を念頭に置いて議論を進めてきた推進派が(とくに弁護士会あたりが)、おそらくは一番驚いたであろう現象が起きてしまった。
「市民」は弱い者の味方であるから、権力者である裁判官とは違って弱者の気持ちを理解できるという前提がある。推進派が期待したのは、国家権力によって身柄を拘束され、弱い立場に立つことになった被告人への理解だったはずだ。しかし、世間の常識からすれば、被告人は悪い弱者でしかない。本当の弱者は被害者なのであって、結局、被害者側の希望を叶えてあげるのが「市民感覚」と理解されてしまった。
それに、人を死なせておきながら言い訳をするのは反省していない証拠であり、まして否認したり黙秘して真相を語らないのは卑怯だ、と評価するのが「市民の常識」である。
この「市民感覚」と「市民の常識」に沿ったかたちで、凄まじい勢いで厳罰化が進んだのがこの数年間の動きだった。
裁判員制度の下で「市民」が判断すれば、無期懲役は死刑になったはずといった論評が巻き起こり、今や日本は、世界に希な死刑大国になり、諸外国から注意されるところまで行ってしまった。

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